落語協会お囃子、恩田えりのブログです。寄席囃子の話とかとか。


by erioneesan
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コルチャック先生と もう一度子どもになれたら(帰ってきた はなこカフェ その2)

(前回の続きです)

この『コルチャック』っていうのはペンネームらしいんですけど。

この人が、実は裕福な家の子どもだったんですね。

ポーランドなんですけど、子どもの時に街に出たら

「すごく貧しい子どもがいっぱいいる。そこでみた情景にショックを受けた。道端に座り込んだ子どもたちはボロ布のような服を着ているし、人々はいかにも貧しそうで食べるものもなく、お腹をすかせているように見えた。」

この時の裕福なボンボンですね、とてもショックを感じたんですね。

自分と同じ年齢の子たちがこんなに大変な生活をしてるんだ、って。

そういう、感じる心のあった人なんです。

それからというもの、この少年は、自分は大人になったら頑張ってお金を貯めて

そういう子どもたちに食べ物をあげたい、そのためにお金を使うんだ、ってことを

ずっとずっと考えて、おばあちゃんとかにもそういう話をして、大きくなっていった。

ところが、この子は実はユダヤの子で、本当の名前はヤヌシュという名前です。

ヤヌシュ少年が飼っていた鳥が亡くなった時に「天国に行くんだよ」って埋めてあげようとしたら

ほかの友だちに「ユダヤが飼っているカナリヤなんて天国に行けないんだよ」って言われて

自分がそういう差別される立場であること、平等に扱われない立場であることを知った。

で、それからどんどん状況が悪くなっていって、子どもたちのために一生懸命尽くすんですけど

最期は強制収容所のほうに子どもたちと一緒に連れられて行って、ガス室に送られていったんですが。

この人が「子どもたちのためにどういうことをしていったらいいか」ということを小さい頃から考えていて。

例えば、孤児とかを集めて暮らしていて、医者にもなって。

お風呂に入っていない子どもがいるってことも知ったし、

自分の話を聞いてもらえない子どももたくさんいるってことを知って。

この、コルチャック先生がやってたことっていうのが、本当に大事なことだっていうことが

この精神から『子どもの権利条約』が作られた、というふうに言われています。

それで、もうひとつ面白いのは、コルチャックさんというのはいろんな本を書かれているんですけれども

『もう一度子どもになれたら』という本を書いているんです。

それはどういう本かっていうと、「大人の生活に疲れた教師」という「僕」が主人公なんですけど。

子ども時代に思いをはせている場面から始まって

「僕はある夜、幸せな子ども時代の日々に戻ることを願った。すると僕は小人の魔法によって子どもに戻り、子ども時代を再体験することになる。」

そういうお話なんです。

で、自分で体験をいろいろしていくわけなんですが

「一度大人になったことがある、なんて、誰にも言わなかった。僕は今までずっと小さい男の子だったふりをして、これから何が起こるか見ようとしていた。それはとても奇妙でおかしな感覚だった。僕は周りにあるもの全てを観察しながらじっと待っていた。僕はママがパンをスライスしてくれるのを待っている。まるで自分ではできないみたいに。ママは授業はどうだったか、と僕に聞く。僕は、大丈夫だよ、と答えたけど、本当のところはわからない。僕は、歩いて、というより、両手を振って行進して行った。とても身軽な気分だった。教師だった時とは正反対だ。きっと僕はクラスで一番よくできるだろう。だって、もう一度学校を出たんだから。」

のび太くんのタイムマシンのようですね。

「いくつか忘れてしまったけど、何かを思い出すということと、全部もう一度学びなおすということは、全然違うこと。僕は先生の所へ行って自分のやったものを見せた。“はい、よくできてるわ、でも見て、一つ間違いがあるわよ”“どこですか”僕は驚いたふりをしてたずねた。僕はわざとひとつ間違えておいたのだ。そうすれば先生は僕が一回学校を終えたことを気づかないだろうと思ったから。」

だから、子どもって、大人を見てる。先生がどんなことすんのかな、って案外見てる。

もちろん、この人は大人を体験しているから観察が子どもよりも鋭いかもしれないけど。

子どもって先生を見てる、っていうことをきっと現しているんだろうな、と思いました。

それから休憩時間があってチャイムが鳴って、ああ残念だ、あともうちょっと遊べたのになあ、

と思いながら一生懸命教室に戻るわけです。

先生たちが教室に入る前に自分が早く戻らなきゃいけなくてダーッと走って校長先生が見えたんだけど

間に合わなくて、ドーンと校長先生にぶつかっちゃった。

僕はどうしていいかわからなくて。そしたら

「校長先生は僕の襟首をつかんで、頭が外れてしまうかと思うほどゆすって怒っている。僕は何も説明できなかった。僕は内心ドキドキして校長先生の言っていることが一言もわからなかった。そのうち、子どもたちが僕の周りに大勢集まってきて見物し始めた。僕はみんなに見られて恥ずかしくなった。僕は泣き始めた。涙がボロボロえんどう豆みたいに出てきた。僕が教師だった時、僕は一体どうふるまっただろう。いろいろと違った行動をしていたことだろう。もし僕がもう一度先生に戻ったら、心配事がある子どもを悩ますようなことは絶対にしないと思う」

と書いてあります。

だから、子供心で何かしたことに対して、やっぱり理由があったり、言い訳があったり、その時の動揺があったり、いろんな気持ちになるわけですけれど、それをちゃんと大人が受け止めているかどうか、ぶつかってきたら悪い子だって叱る、そういうふうなだけになっちゃうんじゃないか。

子どもっていろんなところで見てる。

「僕たちは気づいている。僕たちはたくさん見てたくさん知っているし、もっとたくさん感じていて、もっと考えている。ただ、僕たちはそうではないふりをしなくてはいけないということだ。大人たちが僕たちの口をふさいでしまっているから。40人もの子どもがそこにいるのに、教師たちは子どもの目が見えないとでも思っているんだろうか。なぜ、教師たちは校長先生が来た時と同じようにふるまわないのか。教師たちは口では道徳を語るけど、一方では僕たちに嘘や卑屈さを教えている。それで僕たちは大きくなると、弱いものを押しのけたり、強いものの前でペコペコへつらうようになる。」

私は学校の子どもの事件とかを割と扱うんですけど、学校の中で先生の体罰って事件があったんですね。

で、裁判をしたんです。

先生が廊下で生徒を叩いたりしているところを校長先生が行縋ったりしているんですね。

それは、被害者になった、裁判を起こした女の子も言っているし、一緒に立たされた子たちも「校長先生たちが見てた」って言ってるんですね。

で、法廷で尋問に呼んだ時に、先生たちは見事に「担任(加害)は何もしてない。暴力はふるってない。廊下で叩いているのは見たことない」みんな口裏を合わせるんです。

子どもたちはそういうことがあった、と言っているんです。

子どもだから法廷までは出てこないんですけども、書面の中で、弁護士が聞き取った中で、子どもたちが何人も言っているんです。

向こうは口裏を合わせて「全く見たことない」って言うから、こちらは弁護士として質問するのに

「じゃあ、子どもたちの言っていることは全部嘘だって言うんですか」って言ったら

「そうです」って言うんですね。

だから子どもたちから見た時に「なんであれ見てたのになんでそんなこと言うの?なんでみんなで嘘を言うの?」

子どもたちは先生たちを信じられないという状態が、実はあちこちで多々起こっています。

子どもたちは見えてないわけじゃないんですね。見えているんです。

それを見て育っていくんです。それを見て育った時に、子どもたちがどういう大人になっていくか。

子どもたちにだけ「正しくまっすぐ生きなさい」って言ったって、そういうわけにいくはずがないんです。

と、話していくうちに、自分たちが子どもだった頃をちょっとだけ思い出したかな、と。

さっき読んだ本のように、一日疲れて帰ってきた大人たちが、子どもに戻れたらなあ、と思ったら

どういうわけか、桜井純子さんがみんなを子どもにしてくれた、と。

自分が子どもの頃に帰ったつもりで、考えて書いていただけたらなあ、と。

すごーく嫌だったこと、小学校くらいの感じで書いてほしいんですが。

嫌だったけど、乗り越えられる、ってこともありますよね。

それから、先生の対応が納得いかないことだとか。

その対応がもし違ってたら自分は傷つかなかっただろうな、とか。

あるいはこのことで自分の人生が変わったような気がしたことがあるかどうか。

では、10分ほど考えてみてください。

(つづく)


















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by erioneesan | 2017-06-30 12:46 | Trackback